今回はお馴染みの「忠臣蔵」に関する話です。
毎年12月になると定番のごとく間違いなく忠臣蔵のテレビ放映がありますね!
主君への忠誠とか武士道の体現などともてはやされて人気を博しておりますが、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」から起こった創作物です。
現在の刑法からすれば、殺人罪、傷害罪、住居侵入罪として扱われるべき事件でありますし、47名(厳密には46名)が市中引き回しの上打ち首となるべきところが、切腹という武士としての面目を保たれ、墓に埋葬されており、かなり幕府の情状酌量的な扱いで非常に理解しづらい出来事ですね!

忠臣蔵に関する書物は非常に多く色々な説がありますが、元の資料が非常に少ないために創造の域を出ないものが大半です。
その中でも少し変わった説がありますので紹介しましょう。
事件の起きたのは、犬公方と呼ばれた五代将軍徳川綱吉の時代です。
綱吉は「生類憐みの令」などの悪法を発令し民衆を苦しめたとして知られていますが、最近評価が「非常に英邁な君主」と変わりつつあります。
この時代は、武士が「戦」をすることがなく、平和な時代となりましたが、「切り捨てごめん」などの殺人事件が後を絶たなかったようです。
中でも「あだ討」は美化され、殺人罪にはならないため、100件を超えるほどの事例があったそうです。
成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたでした。
例えば、宇都宮藩で起きた「浄瑠璃坂のあだ討ち」では再仕官に成功、赤穂義士による討ち入りの前年にあった「亀山のあだ討ち」では江戸の北町奉行が再仕官に奔走するなどの資料が残っているそうです。
赤穂藩士は刃傷事件により、藩取り潰しとなり禄を失い浪人生活を強いられることとなります。
江戸時代は、浪人は犯罪者扱いされ、親子・親戚に至るまで同様な扱いがされておりました。
よって、藩取り潰しにより、家老は再仕官のため尽力を尽くすわけですが、そう簡単にはいきません。
大石内蔵助は、「あだ討」という秘策を練り、「お家再興・主君のあだ討」との旗印のもと、吉良上野介邸へ討ち入りをしたというものです。
また、吉良邸から泉岳寺までの9kmをパレードしたのも「あだ討」を印象付けるものであったのです。
しかし幕府は「主君のあだ討」という前例はなく2ケ月半もかけた議論の末、「あだ討」を認めず徒党を組んで押し入った罪で切腹という裁定が下されたというものです。
緩い判決ですが、当時の状況からすれば世論を配慮したようなところもあります。
要は就職活動がメインでの行動でしたが、成就できなかったということですね!
前出の「生類憐みの令」発令以降、この「あだ討」や「切り捨てごめん」などという殺人事件は大きく減少したそうです。
ある意味で何となくあり得るかなという感想はありますが、幕府の動きが解せないなという印象があります。
そこで幕府陰謀説というのが出てくるわけですが、これも種々の説がありますが特に面白いと思われる最新説があります。
徳川家と吉良家は矢作川河口における塩田開発で100年来の確執をもった間柄で目の上のたんこぶであったそうです。
しかし、吉良家は源氏の名門で朝廷とのかかわりが深く、家康が征夷大将軍を取得するために大いに利用し、やむを得ず吉良家を優遇していました。
しかし、松の廊下刃傷事件で浅野藩取り潰しと同時に、これ幸いと吉良家の抹殺をたくらんだというのです。
ところで話はズレますが、江戸城(皇居)の正門はどこだと思いますか?
最近、池上彰氏のテレビ番組でも紹介されていましたが、天皇およびごく限られた人たちのみが出入りできるのは半蔵門であると放映されていました。
半蔵門は橋がなく土手を進んで江戸城内に進むことができ、正門であるとの説が浮上しております。
よって、江戸城侵攻を防ぐため強固な警備がなされていました。
この半蔵門付近には、徳川御三家や親藩らの重要大名の屋敷が立ち並んでいたそうです。
現在の千代田区麹町付近で、1番町、2番町、3番町と呼ばれるのはその名残です。
なんとこの半蔵門近くの平河天満宮に、赤穂浪士の内16名が潜伏していました。
江戸で最も警備が強固な場所に、赤穂浪士が潜伏していたというのは、「指名手配の過激派が警視庁内部の空き部屋をアジトにした」ものと言えます。
当然のことながら、彼らの行動は徹底的に監視され情報も入手していたものと考えられます。
また、大石内蔵助の手紙が残っており、「幕府は討ち入りをさせようとしている」と書かれているそうです。
幕府の裏工作があったにせよ、民衆も討ち入りを支持していたような状況であったようです。
すなわち、民衆も知っているくらいの討ち入り情報は飛び交っていたことになります。
それから、刃傷事件後、吉良家はお役御免となり、呉服橋(東京駅近辺)の屋敷を召し上げられ、本所松坂町(両国)へ移転させられました。
呉服橋は名立たる武家屋敷が並んでおり、討ち入り時に「とばっちり」を受けてはかなわないことから移転させられたのではとのことです。
本所松坂町周辺は何もないところで、さも討ち入りをしてくださいという場所です。
そして、討ち入り時、同心や治安に関わっている者たちは討ち入りに対し取り締まりもせず、かつ堂々と泉岳寺まで行進させております。
おまけに幕府の関係者は誰も処分されなかったそうですから、非常にきな臭さを感じますよね!
しかし、赤穂浪士の「あだ討」というならば、吉良上野介ではなく切腹させた徳川綱吉将軍ということではないでしょうか?
幕府は将軍への非難を避けるため、「忠臣蔵」という面白おかしくかつ忠誠心をあおった戯曲を作り、たくらみを隠したものだというのでしょうね!
「忠臣蔵」は、浅野家の悲劇と家臣の忠誠心を強調したものですが、本質的には、加害者の物語ですね!
刃傷沙汰の理由はともあれ、本来、吉良上野介は被害者であり、かつ悪者にされている極めて偏見に満ちた物語ですね!
そして幕府の思惑で吉良家を滅亡させたというのが、どうも真実のようですね!
吉良上野介(義臣)は地元西尾市吉良町では名君として崇められており、現在でも毎年12月14日に吉良上野介の法要をしているそうです、
被害者が悪者になるという何とも皮肉な結末ですよね!

by H.Ishii